
MORIYAMA, Shin
Ochanomizu University,
2-1-1, Otsuka, Bunkyo-ku, Tokyo, 112-8610
03-5978-5691
ROOM
101-4, Faculty of Letters & Education, Bldg. 1
moriyama.shin[a]ocha.ac.jp
OFFICE HOUR 16:40-18:10, Tue.
ソウルではもう星が見えないとよく人は言う。東京でもよく聞いた言葉だ。でもぼくは言いたい。見えないのは、空のせいではなく私たちの心に余裕がないからだと。ぼくはよく空を見る。特に一人のとき、孤独なときに夜空の星を見上げる。すると不思議な気持ちになる。輝く星の光は何億年も昔にその星を飛び立った光。それが今、ようやく地球にたどり着き、たまたま夜空を見上げたぼくの目に飛び込んだのだ。不思議な出会い。奇跡的な出会いだ。その光は何億年もの長い年月を暗い宇宙の中、一人旅をしてきた。その光がぼくと出会ってうれしいのかはわからないが、そんな光と出会えたぼくは、とっても暖かい気持ちになる。
ぼくが好きな花は、道端でだれが見るとも知らずささやかに咲く名もなき小さな花。大学生のとき、山中の道を一人歩いていて、道端に人知れず咲く一輪の花を見つけて、その美しさに涙したことがある。もしぼくがそのとき、たまたまそこを通りかかったから出会えたものを、そうでなければ一生誰にも気づかれずに死んでいったにちがいない。でもよく見ると実に可憐で精密にできている。そんな時、ぼくは出会いのすばらしさを痛感する。
ぼくがこうして外国に出、外国に住んでいるのもそんな意味があるようだ。平凡に自国で過ごしていれば決して出会うことのない、奇跡的な出会いがそこにはある。故国を離れ、心の根底に孤独を抱えるぼくの心に、そうした出会いは深い感動を与えてくれる。
今日もすばらしい出会いがぼくの心を感動で満たしてくれた。そんな時ぼくは一期一会という言葉を思い出す。ぼくのいちばん好きな言葉だ。
真の幸福とは他人から見たら、不幸に見えるものかも知れない。それはあまりにも小さく、あまりにもささやかだから。
不幸な中に真の幸福はあるのかも知れない。不幸な中にいると人は真剣になれるから。すると日頃は見逃してしまうような隅っこのほうに、光り輝く本当の幸福が目に入ってくるようになる。
幸福の中には実は不幸しかないのかも知れない。みんな幸せを求めて、結局は不幸に出会う。
しあわせな王子は知っている。天国に住むテレサ女史が私たちの耳元に語りかける。そんなところにしあわせはないんだよって。
星は真っ暗な夜空にいるからこそ、美しいのかも知れない。少なくともぼくにはそう見える。
昔、こんな本を読んだことがある。貧しい一人の少年が、はるか西のかなたにいつも光り輝く家を見つけた。あまりに美しく、またうらやましくて、いつかその家を訪ねてみたいと思い、ある日意を決してその家に行ってみた。ところが驚いたことにそのうちは実際には自分の家よりもっとみすぼらしい家で、ただそれが朝日に輝いていただけだった。がっかりした少年は家に帰ろうと後ろを振り向いた。すると東の彼方に同じように美しく光り輝くもう一軒の家を見た。それはその少年の家であった...
兄弟愛、友情、そして恋愛。どんな美しい兄弟愛も友情も、恋愛の力には勝てないようだ。なぜだろう。片割れとして生まれた人間の宿命なのか。+と−は引き合うという宇宙の原理なのか。情愛が恋愛の牽引役を担っている。兄弟愛や友情にはそれがない。だから弱いのか。
だが情愛には決定的な弱点がある。熱しやすくさめやすい。兄弟愛や友情にはそれがないだけに力は弱い。しかし永遠がある(それも幻想かもしれない)。
愛とは何なのか。恋愛に永遠はありえるのか。愛はだれが作ったのか。神様、それとも人間、あるいは単に動物の生殖本能が複雑化したもの?
幸せを求めて皆愛を求める。しかしそれは奇跡を求めて宝くじを求めるのと似ているのかもしれない。宝くじに当選は間違いなく存在する。が、そこに至る門は限りなく狭い。多くの人は狭き門をくぐることができず、失望する。そして再び兄弟愛や友情に思いを向ける。夢を信じてまた宝くじを買う人もいる。
人は酒やコーヒーを飲みたがる。しかし人間にほんとうに必要なのはそんなものではない。単なる水だ。でも水を飲みたがる人は誰もいない。それと似ている。
愛とは一体何なのか。
「蟻とキリギリス」という有名な話がある。そこでは蟻は未来に備えて日ごろからまじめに働く善玉、キリギリスは先のことは考えず毎日を遊んで暮らす悪玉とされてきた。でもはたしてほんとうにそうだろうか。
寒い冬の日、お腹をすかしたキリギリスが蟻のうちにやってきた。そのとき蟻は、余裕がないからとキリギリスを追い払った。その結果キリギリスはお腹をすかしたまま凍え死んだに違いない。もちろんこれを自業自得だと考えることもできる。しかしそれだけで割り切れるものだろうか。
韓国に住みながら、日本人は蟻だと思う。蟻といえば確かに勤勉、まじめという言葉が思い浮かぶ。しかし同時に隣人がお腹をすかして困っているとき、うちも余裕はないと追い払って平気でいる姿も思い浮かぶ。
もし韓国の人が同じ立場だったらどうだろう。少なくとも日本人よりは自分のことを考えずに目の前の人に手を差し伸べる気持ちがある。日本人に比べ、こちらの人たちは感情が豊かな気がする。だからそのときの感情に任せて、楽しく暮らす面もある。大盤振る舞いをすることもある。それがIMFを呼び起こした遠因になっているのかもしれない。だけどその反面、目の前の不幸を前にして、ただ無情に追い返したりできない暖かい面がある。
感情が豊かだということは、日ごろの生活に潤いを求め、それがややもすれば過度のぜいたくにつながることもある。またそれが黙々と日々を生きることに苦痛を感じさせることもあるだろう。でも、その反面、目の前の苦労を黙って見ていられないいい面ももっている。日本人は目の前の不幸を「自分も一生懸命なのだ」というひとことを口実にして「見て見ぬふりをする」ことができる面がある。
日本人が蟻とキリギリスから学ばねばならないことは、日ごろの勤勉さではなく、多情さ、目の前の不幸に自らを省みずに身を投じる心の豊かさであるように思われる。
韓国に住み、韓国の人たちと交わりながら、お互いがお互いのよい点を学びあえたらどんなにすばらしいかと痛感する。どんな人にも、どんな民族にも、その人、その民族ならではの長所もあれば短所もある。そして一つの長所は、あるときは短所でもあり、一つの短所だと思っていたこともあるときは長所になることもある。
韓国にいると日本人は繊細で細やかだとつくづく思う。それがあるときは長所となり、仕事をきちんとしあげることになる。しかしあるときにはそれが短所になり、決断力の弱さになることもある。その点韓国の人は、ある意味で思い切りがいい。当たってくだけろ、だめでもともと的な精神がある。それがぶっつけ本番的になり、用意周到とは正反対に見えることもある。でも、日本人はこうした決断力、失敗を恐れないハラの強さを学んだらいいと思う。
韓国の人たちは自分達を指してよく、底力の強い国といっている。それは日本が見習うべきところだ。日本は用意周到で、でだしは快調な反面、後半精神的に崩れて結局まけるといったことがよくある。でも、こちらは全く反対。お尻に火がつかないと始まらない、痛い目に合わないとわからないといった面がある。でも、それが最後の底力となる。日本はいつもその底力に負ける。用意周到さは日本から学び、窮地に追い込まれたときのたくましさは韓国から学ぶ。
日本人は秩序正しいとよく言う。ルールをよく守る。そのため日本へいくと何かこぎれいな気がする。卒業式などの行事などに参加しても、1分もたがわずに事が運んでいく。その点韓国はめちゃくちゃな点がある。卒業式へ行っても厳粛な雰囲気というよりは最初は各自が勝手なことをしている。入ってはいけないところへ親達が入り込んで自分の子供の写真をとっている。こんなことをいうと日本のほうがいいような感じだが、日本の卒業式は感情に浸る余地があまりない。式は滞りなく運ぶけれど、感動が少ない。それに比べ、韓国の卒業式は式の進行はいろいろ問題があっても、各自が感動している。涙をながしている。
日本人はまわりとのバランスを気にしすぎる余り、自分の感情をどこかへ置き忘れてしまった。また自分で考え自分で判断する力を失ってしまった。もっと自分の気持ち、自分の判断を大切にすべきだと思う。
日本人は親切だという。でも日本人ならその親切が必ずしも愛情に基づいていないことをよく知っている。あるときはサービス精神と変わらないこともある。日本人の親切は相手が何を望んでいるのかを鋭く察知し、それをしてあげることに過ぎず、その意味で愛情が伴っていないことも多い。そういった面では韓国の人は親切じゃない。無愛想なことも多い。プレゼントなんかも日本人なら相手が何をほしがっているのかを中心に決める。でもこちらの人はそうじゃない。あげたいものをあげる。私はこれをあげたい!というもの。それが相手の気にいらないことも多い。でも、気持ちが伴っている。韓国人がひとに何かをしてあげるとき、その気持ちは日本人のそれと少し違う。してあげたいという情があふれるからこそ、してあげる。逆にいえば、してあげたいという気持ちがわかないときには、無愛想になる。
日本のバスの運転手は停留所に1ミリたがわずとまる。1ミリでも動き出したら、もうしらんぷりで行ってしまうことも多い。規則に厳格で、その中で親切も行っている。でも韓国のバスの運転手はそうじゃない。あるときはぶっきらぼうでほんとうに恐い。感情まる出しで、怒ることも多い。日本人みたいに腹の中は煮えたぐりながらも表情はスマイルなんてことはぜったいにしない。
バスにお客を乗せるときもそうだ。気分が悪いととまらないで行ってしまうこともあるが、逆に一生懸命走って来る人を待ってくれるときもある。こんなこともあった。ぼくが韓国の中学生達を連れて日本人学校を訪問したとき、その運転手さんは停留所でもない、学校前でとまって全員をおろしてくれた。
もちろんそんなことをしているから秩序も何もなくなってしまうのだろうが、ぼくがいいたいことは、お互いが持っていないものを相手が持っており、それを謙虚に学んでいけば、ほんとうに得るものが多いということだ。
日本と韓国、似ているようで似ていない。お互いが自分を中心に相手を見つめていると、相手の全てが欠点として見えてくる。そうじゃなくて、お互いが相手から何かを学ぼうという気持ちを持つとき、学ぶべき多くの点を発見できるのではないかと思う。
新大久保駅での事件で救出しようとして亡くなった犠牲者の一人が韓国留学生であったことを知ってショックと感動を覚えた。朝、新聞を読みながら、涙があふれた。身も知らない人を、それも留学生の身分でありながら、率先して救出を試みた勇気に心を強く打たれた。日本人が何よりも学ばなければならない点だ。日本人は何かをしようとするとき、まわりの目と、それが自分に及ぼすリアクションを考えてしまう。でも韓国の人は、そうじゃない。自分の気持ちに正直だから、心がそう思えばまわりがどうあれ、それを実行する強さがある。
前にこのホームページのエッセイに「ありときりぎりす」の話を書いた。この話を読んで日本人が学ばなければならないことは、ありの勤勉さではなく、苦しんで今にも死にそうな隣人がたずねてきたとき、自らを考えず助けてあげられる気持ちの広さだということを書いた。まさにその手本を今回李君が見せてくれた。李君はお父さんやおじいさんが日本から受けた仕打ちを考えると、ある意味で日本はにくい国だ。でも彼はそのとき、そんなことは考えなかっただろう。過去のしうちも、自分がどうなるかということも考えず、ただただ目の前で死にそうになっている人のことだけを考えた。
そんな気持ちは何も李君一人のものではない。自分も韓国にいながらほとんどの韓国の人達が同じようにまわりの人を助ける姿を目にしてきた。困っている人がいれば、それが見知らぬ人かどうかとか、周りの目だとか、自分のことだとか考えない。10年以上韓国に住みながら、日本人に欠けているそんなすばらしさを知らず知らずに学んできた。だから自分も日本に帰ると、周りの人がどうなっていようと知らん振りする、あるいは見て見ぬふりをする日本人の冷たさというか、勇気のなさには心の憂いを感じずにはいられなくなる。なぜ日本人はもっと心を使わないのだろうか。他の人が見てみぬふりをするなか、自分一人が知らないうちに席をゆずっていたり、困っている人に声をかけたりしている自分に気づく。自分を誇りたいわけではなく、日本人はみんな心を使わない癖ができてしまっているから、今回の事件をきっかけに、韓国の人からそんな熱い情をぜひとも学ぶべきだと思う。日本人は「借りてきた猫」のようにお行儀よくふるまうことしかできないなんてなさけないと思う。いいことは、ただしいことは、だれがなんと言おうとやる! そんな勇気と熱き心をとりもどさなくちゃならないと思う。
最近、ニュースやテレビを見るたびに今の日本を憂えざるをえない。成人式にクラッカーを鳴らして逮捕されるのはまだましと言えるのかもしれない。連続する凶悪殺人事件、准看護士が点滴に筋肉弛緩剤を入れて患者を死に至らしめた事件など、そしてまるでゲーム感覚でセックスを楽しむ若者(エッチと言ったところでその意味はかわらない)、そればかりかそれを平気でさらけだす若者。毎年富士山ろくに集まる暴走族。ニュースキャスターたちはそれを問題だと言ってはいるものの、同じ放送局がそういったことを煽るかのような低俗な番組を放送する。何が日本をこのようにしてしまったのか。よくはわからないが、日本の親や先生は子供に価値観を教えないことが何よりもの原因だとぼくは思う。戦中を生きた世代が敗戦を通じ、それまで信じさせられてきたものが完全否定させられる中で、何を信じて生きたらいいのかわからなくなり、その結果、子供に価値観を教えなくなった。また日本が戦争に負け、価値観を教えることが戦前の復活であり、罪悪であるかのように考えられる傾向も生まれた。日本の大人たちの言うことを聞いていると、しつけ的なことばが余りに多い。「何々してはいけない」「何々しなさい」などなど。しつけはきまりであって、それでは心は育たない。心に柵を作ることが重要なのではなく、よい芽が出、はぐくまれていくよう耕すことが重要なのではないか。もっと言わなくちゃならないことがあるはず。教えなくちゃいけないことがあるはずだ。日本では「人に迷惑をかけるな」ということばが重視される。でも、迷惑をかけないことが重要なのではない。迷惑は結果であると思う。迷惑をかけなければいいのか。ひとりこっそりやればいいのか。そう言いたくなる。多少の迷惑がかかっても、やらなくちゃならないことはあると思う。迷惑がかからなくてもやってはいけないことがあると思う。重要なことはもっと深いところにあると思う。善悪の基準とかいうもの。善いことは迷惑がかかってもやらなきゃいけない、悪いことは迷惑がかからなくてもやってはいけない。
昨年慎吾ママがはやった。慎吾ママは迷惑という点においては周囲にいろいろと迷惑をかけるタイプだと思う。スマートに生きていけないというか。でも信念がある。親というものは先生というものは、そういう強さがなくちゃいけないと思う。去年日本で「私的には...」ということばもはやったとか。実に信念の欠けた、当たり障りのないことばだろう。個人主義の極地ってかんじがする。最近のことばを聞くと、「〜的」「〜系」「〜モード」など、ものごとの断定を避けることばが多い。真剣に生き、真剣に考えたことを、堂々と言える、そんな強さもあっていいんじゃないか。
ケナリ(れんぎょう)、チンダンレ(朝鮮ツツジ)に包まれて幕を開けた4月、中旬に桜が満開となり、今では木の多いセジョン大学は、若芽の黄緑に包まれ、垣根には赤や白、それに濃いピンクのチョルチュク(ツツジ)が咲いている。日本に比べ韓国の春は色彩の変化がはっきりしていて鮮やかだ。こういった自然が韓国の人たちのはっきりした性格やチマチョゴリの鮮やかな色彩に反映されているのだろうか。
最近、日本と韓国は教科書問題で関係が悪化している。そういった外交関係は私たち韓国の日本人教師の身の上にも微妙な影響を及ぼす。昔教科書で「最後の授業」というのを読んだが、両国の関係が悪くなると、両国の関係がよくなってほしいと願う気持ちが増してくる。外から見た日本は、あまりにも横柄に見える。日本の政府をはじめとした一部勢力は何ゆえ、事実を事実として認める勇気がないのだろうか。加害者は感じていないかもしれないが、被害にあった人たちはその悪夢のような時代の苦痛を忘れようにも忘れがたい。日本で住んでいる日本の人には、なぜ50年以上も前のことをいまでもしつこくこだわるのかという人がけっこういる。でも、例えばレイプされた女性が生涯その悪夢から解き払われずに苦しむように、一度被害にあった人たちにとって、その過去は容易に消し去れるものではないことを日本の人たちは理解してほしいと思う。望みもしない相手にひどいときには日に50回以上も欲望の対象とされ、心も体も傷ついてしまった人たちがこちらに生活していると身近な人のように感じられる。それでいて国連安保理の常任理事国になろうとしているのだから、ずうずうしいもあったものじゃない。こちらの人たちの心の傷を癒してあげられるのは心からの謝罪の以外にないと痛感する。裏切られて不信感を持ってしまった相手をもう一度信じられるようになるために、どれほどの名誉回復の努力が必要かを考えてほしい。いつまでも大人になれない日本。大人になれない日本がどうしてアジアのリーダーになっていけるのか。子供や奥さんの前で素直に謝れない頑固な親父の姿が大人の姿だと考えているのか。そんなの甘えに過ぎないと思う。
新しく首相になった小泉首相は、今までの首相とは違いやるべきことはやり、言うべきことははっきり言う勇気があるように思える。かつて韓国民に対し過去の歴史の過ちを認め勇気を持って謝罪した細川首相のように、教科書問題や従軍慰安婦問題に勇気を持って立ち向かってほしい。
日本と韓国、どこが一番違うかと聞かれたら、ぼくはバス!と答えるだろう。
最近、都バスに乗ることがあるが、ある人がバス停に近づいたので席を立った。そしたら運転手が、危ないですから停まるまで席を立たないでください。と声をかけた。それを聞きながら、随分違うなと思った。韓国だったら、止まる前に席を立たなかったら降りられないかもしれないからだ。停まってから席を立つなんて遅いと逆に起こられるかもしれない。
それから日本のバスは言ってみれば、これこそが運転の模範といったような運転のしかたをする。これに比べて韓国の運転は、これこそ運転の最悪の模範といった感じだ。何車線もある道路の真中でお客を乗り入れさせることもまれではない。混んでいるときにはセンターラインを超えて、何十メートルも走ることもある。案内の放送はかけたりかけなかったりするし、順番がわからなくなって実際の停留所とは違う案内が流れたりする。ソウル市の真中を早朝や夜などに時速120キロで突っ走るときなどは、ジェットコースターより怖い。ただただ目の前の手すりをしっかり握り締め、無事を祈る。立っているときは文庫本を読もうななどということは考えず、両手で手すりやつり革などをしっかりにぎりしめていなければならない。日本人は片手でつかまるから、バスが走るとカーブなどでくるくるまわってしまうそうだ。こうした環境に適応できずに帰ってしまった日本人もいたという。ドアを閉めないまま走ったり、ドアを開けてほかのバスの運転手と大声で話したりもする。接触事故を起こすと、乗客をそっちのけで、相手の運転手とののしり合いのけんかが始まることも。今はそんなことはなくなったと思うが、以前は終点まで行かずに途中で折り返して帰ってしまったり、道が混んでいるからと、路線外の抜け道を通ったりしたこともあった。そんなことに慣れてしまうと、バスが止まってから席を立ったり、信号待ちの間、エンジンを止めたりといったことは、何か考えられない現象を目の前にしているような気持ちになる。ぼくも韓国のバスに乗りなれないころは、バスが完全に止まってくれず、飛び乗ろうとして乗りそこない、道路に倒れてしまったことや、料金を払おうとしているうちに走り出し、車内で倒れこんでしまったことなどもあった。そんなことだからこちらのお年よりはたくましい。バスが近づいてくると、手をさかんに振り(そうしないと運転手の気分次第でそのまま通り過ぎてしまうこともあるからだ)、バスが止まると思われる地点めがけて(停留所はあるが、実際にどこにとまるかはなんとも言えない)ダッシュが始まる。日本のお年寄りが韓国に来たら、一生涯乗れずにバスを待つか、バスに乗ったはいいものの事故死するかのどちらかではないか。少なくともジェットコースターか何かで肝試しをしておいたほうがいいかもしれない。熱血漢溢れる韓国と、熱血が枯れて機械人間と化してしまった日本人とのコントラストがおもしろい。
韓国で日本語を教えて10年。最初の授業のときにいつも言うことだが、ぼくにとって教室での学生たちとの出会いは、単に一教師と学生との出会いではない。一期一会。つまりもしぼくが韓国に行くことがなかったら、決して出会うこともないまま終わってしまうであろう、大切な出会いだ。だから最初の授業に入るときは、授業に対する緊張もさることながら、今回はどんな学生との出会いが待っているのだろうといった期待感に満ちている。
しかしそういった出会いに満ちた韓国での生活も今、終わろうとしている。楽しかった旅もこれで終わる。自分にとっては夜が明け、覚めたくない夢の世界からいよいよ現実の世界へもどらなければならないピーターパンのような気分、あるいは「星の王子様」のラストシーンのような気分だ。10年間に出会った学生たちの顔が走馬灯のそうに次々と脳裏によみがえってくる。おめでとうと言ってくれる学生よりは、おめでとうと言えない学生のほうが多い。あるときはお兄さんのように、あるときは友達のように接してきただけに、帰らないでほしいという学生の気持ちが伝わってくる。とりわけ授業だけでなく、ビデオなどを借りに来たり、質問に来たりして、授業以外に親しんできた学生たちが別れを惜しんでいる。いい思い出を残してくれた人もいれば、ちょっとつらい思い出を残してくれた人もいる。でもぼくの中に作り上げられた日韓関係は決して悪いものではなかった。それどころか、最高の関係であったと言うことができるだろう。最悪だった日韓関係の歴史にショックを感じ、自分は韓国に行って新しい友好の歴史を築くんだと心に決めて始まったぼくの日韓関係は、当初は長くて2年と考えていたが、終わってみると実に10年を超えてしまった。現実を完全に無視することができたなら、このままずっと韓国にとどまりたいとも思う。でも親の高齢などの現実を無視することもできず、1年程前から帰国を考えるようになった。もちろんかといって日本での新たな生活が嫌なわけではない。自ら選択した道だ。今後は学者として、また教育者としてよりいっそうの成長をしていきたいと思っている。
韓国を発つにあたり、これまでさまざまな思い出をぼくに残してくれた学生たちに今の気持ちを語ってみたい。
まずなんといっても韓国の学生、韓国の人たちは多情多感だ。いい意味でも悪い意味でも突っ込んでくる。成績が気に入らないと文句を言いに来たり、一度親しくなると度々研究室を訪れたりするようになる。あまりにしょっちゅうやってくるので面倒がみきれないと思うこともあるが、ほとんどの場合は親密感を増す。日本の学生なら、相手はどう感じるかとか、そんなことに気を使って何をするにも恐る恐るといった感じだが、韓国の学生たちは思ったことをそのまま行動に移すことが多い。親しくなるとこちらがそれ以上は困ると言わない限りやってくるというか。ぼくは日本の学生たちにもそんな面があっていいと思う。先日テレビで日本人は道端で相手が困っていても、こちらから声がかけられないという。それは声をかけたら返って迷惑になるんじゃないかとか、いろいろなことを考えてしまうからだという。でも韓国の人はそんなことはあまり気にしない。迷惑とかそんなこと以上に、自分の気持ちを大事にする。日本の学生たちも、結果的に迷惑になったとしても、自分の気持ちを大切に考え、何かをしてあげたいと思ってやってあげたんだから結果が悪かったとしても後悔しない、そんなところがあっていいと思う。新大久保駅の李スヒョンさんの事件もそうだ。どうしようかと考えてしまった日本人(もちろん関根さんのような人もいるが)と、事件を目の前にして「なにはともあれ助けなければいけない」と人間としての気持ちの通りに行動した韓国人。もちろんその結果はこの世を去るといった最悪の事態となり、日本人のほうが賢かったと言えなくはないが、ぼくは人間らしい韓国の人たちの姿に惹かれる。日本に帰ったあとは、日本人の学生たちにそんな面を教えてあげようと思っている。
もちろん韓国の学生たちに直してほしい面もある。それはなんと言ってもカンニングの多さと宿題などを始めるのが遅いこと。カンニングについて言えば、日本人の頭の中にはバランス思考というか、決まりや秩序は守らなければならないといった思いが強く働くが、韓国の人は、なんとかしなければならないといった気持ちが先走ってしまって、自分のしていることの良し悪しが見えなくなってしまうことがある。また家族主義がへんな方向に発展してしまって、できない人を見捨てることに呵責を感じるのか、できない人に手を差し伸べてしまう。また始めるのが遅いというのも韓国の人たちの典型的な民族性だ。よくいう「底力の強い国」というやつだ。最後に巻き返しを図るその底力の強さには感心するが、もう一面においては日ごろからこつこつといった側面もあっていいと思う。最後の最後に底力だけで物事を処理するくせができてしまうと、ちょうど一夜漬けの勉強が身につかず、実力の積み上げに役立たないように、長い目で見れば憂き目を見ることになると思う。そういったことがワールドカップをあと1年に控えるトルシエジャパンとヒディンク韓国の差に現れていると思う。今の韓国では例によって「たいへんだ!」と言いながらの必死の巻き返しをはかっており、底力の強い韓国のことだからそれなりのラストスパートを図るだろうが、外から見ていると、何でもう少し前から対処しなかったのかと言いたくなる。
でも韓国の学生たちの授業への参加率の高さや先生を敬う気持ちなどは日本の学生を上回っている。もちろん1/4以上欠席すると単位がもらえないという制度のせいもあろうが、勉強に対する意欲は日本より高い。また先生との関係も親密で、何か学生の行事があると必ず先生も参加してほしいと誘ってくる。おかげでぼくも新入生歓迎合宿には4年連続で参加し、日本語劇にもできるかぎり手助けをしてきた。学問や師を重んじる姿勢は歴史の影響もあるのだろう。
韓国は今も熾烈な受験戦争が続いている。そのためか勉強部屋のそうじなど、勉強以外のことは親がするという場合が多い。そのためか、教室などにごみを捨てても平気でいるといったことが多い。午後の授業になるとごみの中で授業をするような感じの場合も多く、そんなときはぼくが先頭に立って授業に先立ち掃除を始める。自分のことは自分で責任をもってするということ、これも韓国の学生たち(韓国の親たちにも)望みたい。
韓国において日本語を教えたこの10年の間に、日韓関係にはさまざまなできごとがあった。日本の首相や大臣が問題発言をするたびに日本人の一人として学生たちにすまない気持ちを告白したことも何度もあった。独島(竹島)問題が起きると学生に意見を求められることもあった。96年にW杯日韓共催が決定したときには、韓国の人たちはW杯誘致において日本には勝ちたかったという気持ちとあの日本といっしょにやるのは嫌だという気持ちなどからかなりの失望感があった。でも時間がたつにつれ、日韓共催は日韓友好気分を増進し、その後は日韓の隔たりはかなり縮まった。しかし最近になって教科書問題や靖国神社問題などで、日韓関係は相当に後退した。でもそんな中で少なくともぼくの教室での日韓関係は変わりなく良好だった。日本語を専攻する学生たちも変わらぬ気持ちで日本語を学び続けた。日本人の一人として、韓国の学生たちに最高の授業を提供し、自分が心から韓国を好きになることにより、学生たちも今までの日本への恨みを解き、発展的な気持ちで日本を見つめることができる。そうすることで日本人もまた韓国への認識を新たにし、その延長上に両国の関係がよくなっていく。これがこの10年間ぼくがたえず心に持ちつづけた姿勢だった。日本という国が嫌いでも、目の前にいる先生は好きだと思ってくれるように努力し、それが一点突破となり日本との関係が改善していく、またぼくのもとで学んだ韓国の学生たちが過去に対する複雑な感情を乗り越え、日本の学生たちに感動を与える人となってくれると信じた。
これからは日本の地で韓国を始めとした留学生を迎えることになる。今までのようにたくさんの学生を迎えることはできないかもしれないが、今までと変わらぬ気持ちで韓国の学生たちを迎えたい。また日本の学生たちに韓国のすばらしい点を伝え、韓国語も教えながら、今まで以上に日本の学生たちが韓国に目を向けるように努力したい。
韓国に住んで10年。その間に良い面も悪い面もたくさん見てきた。その上であえて言いたいことは、韓国の学生たちへの気持ちは今も昔も変わらないということ。ぼくの韓国の人たちを愛する気持ちは今後も変わることはないでしょう。熱い国、韓国。がんばれ、コリア。
文庫本は携帯に取って代わられ、子供は愛犬に取って代わられた。最近の日本を見ているとそう感じる。以前はよく見られた電車の中で文庫本を読む光景は最近ではすっかり見られなくなり、代わって携帯を見つめ、メールをチェックしたりする光景が目立つようになった。また少子化に伴い、逆に増えているのが愛犬。街には可愛い服を着た犬が飼い主に抱かれ、公園には子供づれ、孫連れの散歩よりは犬連れの散歩が目立つ。動物病院が増え、テレビやコマーシャル、映画の主人公も犬が多くなった。犬にかけるお金の額を考えると、少子化の原因に経済的理由があるとは考えにくく、もっと別の理由を考えざるをえなくなる。これでいいのだろうかとついつい思ってしまう。人間として一番大切なものがますます失われていくような気がする。
読書についていえば、人は今まで、本などを通じて生とは何か、人間いかに生きるべきかといったことを学んできたはず。そういった機会が失われつつある。また日本には人生を教えてくれる親も少ないし、人生を語る先生も少ないのが現状ではないか。
最近の幼児虐待を見ていると、親になれない大人が増えていることを痛感する。性が快楽の手段として開放的に考えられる中、子供はますます快楽の邪魔者と化しているようにも思える。そこまでいわなくとも、親としての心構えもないうちから、快楽の対象としてそれを用い、そのうちに子供が産まれ、親になれていない親から子供は正当な愛を受けられずに苦しんでいるとも見られる。性というのは愛と表裏一体のものであり、愛は新しい命を生み出し、育むものであることを最近の若い人はもう少し考えてほしい。親としての心構えもなく、大人としての精神的な成長もない幼いうちから、性にだけは関心を持つのはよくないと思う。性を楽しみたければ、それに見合った愛情の成長が必要なことを最近の若者は考えているだろうか。またそんなことを教える大人も親も少なくなったのではないか。子供が同棲をしても、婚前交渉(こんな言葉、今の日本では死語になってしまった感がある)してもなぜそれが避けるべきことなのか、話してあげられる親がどれだけいるだろうか。
日本人ほど人間関係が表面的な国民もいないのではないか。人間関係を、「直接的なふれあい→声のふれあい→文字を通じてのふれあい→ふれあいなし」というように4段階で考えてみると、最近の日本人は直接的なふれあいは少なくなり、直接的に触れ合うときもお互いに遠慮しあったり、迷惑を気にしたり、プライバシーとかの名の下に、心の世界には一切踏み込まなかったり、表面的なあいさつで終わっているような感じがする。そしてそれよりは電話などの声のふれあいのほうが気軽でよかったり、最近ではそれも少なくなり、携帯を持っていても、通話ではなく、メールでのふれあいを求めているように思える。そのくらいの距離が多くの日本人にはちょうどよいのだろうか。電話なら相手が今、通話可能なのかを気にしなければならないが、メールだとそんな迷惑はあまり気にしなくていい。人間の温もりなしに人は生きられないから、ふれあいなしというわけにはいかない人間の最も疎遠な人との付き合い方、それが今の日本では主流になりつつあるような気がする。
私が長年住んだ韓国と比べても日本人の人間関係はずっと遠い。韓国の学生は吐息を感じるくらいの至近距離に来ることもある。韓国や中国の電車の中では、携帯の使用が許され、人々はけっこうあちこちで携帯電話をかけている。日本では「迷惑」の名の下に一掃されてしまっている。確かに車内で大きな声で通話するのが手放しでいいとは言わないが、日本人の人間関係はあまりに周りを気にしすぎて縮こまってしまっているように思える。
意味は違うがヨーロッパから来た留学生は別の意味で日本人の人間関係の疎遠さを指摘する。自分たちにとってハグすることはごく自然な行為であるが、日本ではそれがない。日本には西洋では一般的なスキンシップもないわけだ。他のアジア諸国にはまだ残っている親密な家族のような人間関係も失い、かといって西洋のようなスキンシップの文化もない。そんな中で日本人は、直接的な人間関係に自信を失い、ただ携帯の小さな窓越しに文字を通して伝わってくるかすかな人間のぬくもりに満足し、一方では子供を育てる自信もなく、またそれをわずらわしがって、その代用品として犬を可愛がる人も中にはいるように見受けられる。そのような一部の日本人にとっては、それなりの人格が必要な人とのふれあいより、むしろ無条件に従ってくれ、気軽につきあえる犬のほうがむしろ可愛いのかもしれないなんて思ってしまう。子供を捨てたら犯罪だが、犬を捨てても犯罪にならないし。子供ならせっかく買ってあげた服でも気に入らなければ着ないが、犬ならそんなことはない。犬の立場に立ってみれば、服を着ないのが自然の姿なのだから、飼い主の自己満足で服を着せられ、さぞかし窮屈だろうが、そんな反発はしないで、すなおに従ってくれる。シャネルの服を着た犬は裸の犬より気分がいいのだろうか。
より気楽なふれあいを求め、あるものは携帯へ、あるものは愛犬へと向かっている。こんな考え方は多分に誤解があるであろうが、今の日本の社会を見ていると、どうしてもそのように思えてならない。ふれあいを「人とのふれあい→動物とのふれあい→植物とのふれあい→ものとのふれあい」と考えると、日本では人とのふれあいが少なく、動物、花や草木などの植物とのふれあいや、ものづくりといったもので、人とのふれあいの代償を求めているようにも見える。
スーパーに行くと、お年寄りが一人、買い物をしている姿を見かけることがあるが、実に孤独そうに見える。犬に語りかける人も多い。家に帰ってもだれも話す家族がいないために、話を聞いてあいづちを打ってくれる人形が最近人気だとも聞いている。ベンチに座って、いつ来るともしれないメールの返事を待っている若者を見ることもある。
韓国にいたころは、学生の将来とか結婚問題などについて心を割って考え、ともに悩み、相談したりしていた。放課後学生たちとキャンパスの芝生に腰をおろし、いろいろ話をしたこともあった。ところが日本に来てからは、プライバシーだとか、いろいろなことに神経を使わなければならず、そんなことなどできようもない。日頃人間関係が疎遠になると、たまに交わされる一言に傷ついたり傷つけられたりすることもあるだろう。
わずかに留学生が研究室に来ると、やや親密なふれあいの場が持てるに過ぎない。自分の気持ちを相手に話すことも、感情を示すことも、何もかもがいろいろなものに縛られていて、それぞれの心の中にこっそり閉じ込められているような感じがする。そういった人間関係の中で育って大人になって、親となり、純粋無垢な子供が誕生したとき、ある意味では生まれて始めての親密な人間関係を体験するのかもしれない。そうなったとき、目の前の子供にどう対し、どうはぐくんだらいいのかがわからない。本も読んでいなければ、だれかと心を割って話し合ったこともない。そんな中で子供はそんな親になりきれずに大人になった親の犠牲になることも。最初からそれを放棄してしまった者の中には、文句も言わずに自分に従い、しかも責任を伴わない犬を育てるほうに向かう人もいるのではないだろうか。
携帯が文庫本に取って代わり、犬が子供に取って代わられつつある、今の日本の現状に再考を促す意味で、あえてこんなことを書いてみた。これが東京など一部の大都市だけの現実であることをひたすら祈りつつ。
久しぶりに韓国以外のアジアの国に出てきて、母国日本を見つめる。秩序、安全、責任。これらはもちろん重要なことはわかる。でも、何かちょっと行きすぎてしまった気がしてならない。
確かに日本は秩序が行き届き、安全で、みんなが責任の重みを感じている。でも、それは逆に言えば、責任の重みから、自分の殻を破れずにいるし、冒険ができずにいる気がする。ほかの人と親しくなり、気持ちを交えるのも一苦労で、相手の顔色から一つ一つ了解を得て前に進まなければならない。プライバシー、個人情報保護などの厚い壁に阻まれて、人と交わっていてもなかなかその人の気が知れない。
自分の心をだれにも話せないし、他人の心もだれも聞いいてくれない。形式的な交流ばかりが長々と続く。留学生たちと接していると一気に親しくなれる関係が1ヶ月たっても持てない。そういった生活に嫌気がさしたのか、最近はブログがブームだ。自分の名前を出して、堂々と気持ちを開示することもできず、仮名を使い、別人を装って吐き出したい気持ちを吐き出している。そんな毎日が続いていると、どっちがほんとの自分かわからなくなるのではないか。仮名を使い本心を語る自分と、実名を使い何も語れない自分。
日本人は人間関係ができなくなってしまった。人間関係が疎遠になっただけではなく、少子化、親子の関係も非常に遠くて、親は子どもをしかることもできない。学校ももはや金八先生のような熱血先生は住みにくくなった。教育というのは表面的なつきあいでは決してできないはずだ。そこには一歩踏み込んでいくことも必要なのに、みんなびくびくして何もできずにいる。決まりを押し付けることが精一杯で、表面的な平和を守っている。でも、人々の心の中はすさんでいるはず。でもだれもそれを何とかしようなどとは毛頭考えない。
大学を訪問するため迎えに来てくれた学生とも一気に親しくなれた。日本では考えられないことだ。日本人はもう少し、秩序、安全、責任と言うことばを忘れて、人間関係にもまれてみたらどうだろう。多少心に傷を負うこともあるかもしれないが、私たちの心はずっとずっと豊かで暖かいものになるはずだ。そういった意味でぼくはアジアの人たちとその人間関係が好きだ。
そんな引っ込み思案の日本人なのに、体の開示は得意なのはなぜだろう。みんなやっているからということか。それともそれを抑える装置がさび付いてしまったのか。困ったものだ。
日本人がまたしても韓国人留学生に救出された。ホームに20人もいた日本人はなぜ、傍観者しかできないのか。きまり、会議での合意や決定、上司がいないと何もできない…。JR福知山線の列車事故のときもそうだ。自分の判断と決断力の欠如が情けなく思う。
職場でも、自分の良心や意志に基づく行動は、単独行動として批判の対象となる。まずは、きまり、会議での合意、上司の判断が優先される。でも、そんなことをしていたら、人の命は守れない。
韓国人留学生が女性救出 01年と同じ、新大久保駅で(共同通信から抜粋)
東京都新宿区のJR山手線新大久保駅で21日朝、ホームから線路に落ちた女子大学生を韓国人留学生が助け出していたことが24日、分かった。
留学生は、東京都杉並区に住む申鉉亀さん(27)。同駅では2001年1月、線路に落ちた男性を助け出した韓国人留学生李秀賢さん=当時(26)=が電車にはねられ亡くなっている。
申さんは李さんと同じ東京都荒川区の日本語学校に通っており「先輩のことを瞬間的に思い出した。先輩に助けられて普段の何倍もの力が出た」と話している。
申さんらによると、21日午前5時半ごろ、山手線内回りのホームで、トイレに行く途中だった申さんが、線路に転落し倒れている女子大生を発見。ホームには20人ほどの客がいたが、見ているだけだった。
日本に帰ってきてわかったことだが、日本の会議は意見を言う場ではない。もちろん言うことはできるが、周囲の人の了解を得た上でないと、言えない。言ったらあとで叱られてしまう。だから会議の意見のほとんどは、すでに了承済みの意見を出して、それを確認するだけの場になっている。だから会議前の根回しが重要となる。だけど、ぼくには根回しってなんとなくネガティブなイメージが強くて、できない。どうしたらいいのだろう。会議ではできる限り議論や対立は生じないようにし、円滑に決定したという体裁を整えることが大切なようだ。
日本では議論はけんかだと思われているようだ。自分の意見を率直に述べるのは、我慢の限界、つまり最後通牒であるようだ。でも、そうだろうか。議論すること、自分の意見を言うことは、けんかでもないし、親密化の第一歩だと思うが。
韓国に10年以上住んでいたのに気づかなかったことがある。それはインスタントラーメンの作り方。この前、辛ラーメンを作っていたら、指摘されて初めて気づいた。日本の場合、野菜とか肉とかいろいろなものを入れる。韓国も同じだろうと思っていたが、韓国ではインスタントラーメンにはあまり入れないと言われ、驚いた。入れるものといえば、きざんだねぎと、卵ぐらい。確かに冷麺でもあまり野菜などは入れない。その理由は簡単で、野菜はキムチとかで別に食べればいいというものだ。非常に身近なできごとに気づいていなかったので、あえてここに書いた。
「無駄な失敗はなしし、失敗しないと学べないものがある。」荒川静香のことば。
連日、朝青龍の問題でマスコミが騒いでいる。それに扇動されるかのように社会もそれを騒いでいる。日本での大方の考えは朝青龍を非難するもの多い。しかしモンゴルの側からはこうした日本側の対応は厳しすぎるとの反発が多い。こうした意見の食い違いはどこから来ているのだろうかと考えてみた。
相撲は日本の国技である。しかしそれは相撲道とも言われるように、単なるスポーツではなく精神的な修行をも含んだ一つの「道」である。こういった相撲が、グローバル化の中で少しずつ「国技」という枠を超え、海外から有力選手を集め、その結果海外からの力士の数が増加している。しかしその際に海外の力士たちは相撲を「道」としてとらえているだろうか。また募集の際に、そのことを明確にし、技能面とともに精神面についての説明と指導を行っているだろうか。おそらくそのようなことは少ないと思う。海外力士たちは技能面のみに注目し選別されているに違いない。同様に日本に行き相撲の世界に入ろうとする海外の力士たちも、相撲のスポーツとしての側面のみを見て決めているに違いない。確かに日本の選手なら、単に技能に優れている人を集めても、精神的側面は日々の修行の中で自然に育成され、身に着くであろうが、同じことが海外選手にもあてはまるとは思われない。
つまり日本側にも相手側にも「道」としての側面を軽視したままグローバル化が進んできた。技能面に優れる海外選手たちは、相撲道としての精神的側面をさほど学ぶ機会も与えられぬまま、成長し横綱になっていく結果となる。しかし横綱は相撲の世界において技能面の模範であるだけでなく、相撲道の精神的側面の模範になることも要求される。その辺のところは日本の選手ならある程度当然のこととしての自覚があるであろうが、はたして海外選手にそういった自覚が自然と備わるのであろうか。また備わるだけの教育の場があるのであろうか。おそらくそれらを納得し、理解し、受け入れること自体が不可能に近いということもあると思う。
朝青龍問題は、相撲のグローバル化の問題である。スポーツとしてグローバル化を図るのであれば、朝青龍に「道」の模範としての素養を当然の如く要求するのは無理である。そしてそのような側面をあまり強調し指導して来なかった相撲協会がまずもって反省すべきだと考える。「道」としてグローバル化を図るのであれば、日本の伝統精神をそのまま受け継ぐことに対し妥協せざるを得ない。なぜなら日本の伝統精神を海外の力士が学ぶことは、日本人が学ぶことと比べ物にならないほどの異文化理解とそれに対するリテラシーが求められるからである。最終的にその考え方が理解できずに終わることもありうる。
今回の問題を朝青龍個人のわがままに帰着させようとする論調が多いが、そうではないと思う。「道」を伝えることの難しさに気付かず、それに対する努力を怠る中で、それを当然のごとく海外力士に求め、それに従わない場合は悪者扱いする相撲協会側に責任があると考える。精神面を含めた「国技」としての相撲を守りたければ、海外から力士を募集し、グローバル化を目指すのはあきらめるべきであろう。グローバル化を果たしたければ、文化の異なる海外の人に「道」を伝えることの難しさを自覚し、それに対する努力と、多様化に対するある程度の寛容の精神を持つべきである。
日本語の国際化が可能かどうかは別として、もし日本語の国際化があるとすれば、そこにはどうしても音韻、語彙、文法すべての面において多様化に対し寛容な態度を持たずしてそれはありえない。そうしなければ「標準語」を押し付け、多様化を排除した過ちをグローバルなレベルで繰り返すことになる。長年ほかの言語を母語として用いてきた学習者が日本語を使う際に、母語の転移を受けた言語を話しても、それはそれとして言語であり、それを誤った言語、不完全な言語と考えることの問題点が指摘され始めて久しい。
今回の問題もそれと同じであろう。日本はかつて日本語を「国語」として海外に押し付けてきた歴史(前科)がある。伝統文化を守ることは重要であるが、伝統文化を守ることとそれを海外(の選手)にも押し付けることとはまったく別問題である。「国技」「国語」を海外に押し付ける際の危険性に気づくべきであろう。
日本人は日本人なら当たり前で納得できるルールが、海外の人には当たり前でないこと、納得できるとは限らないことがわからないことが多い。そういった状況では、日本人はルールを守る良い人で、海外の人はルールを守らない、または守れない、悪い人、バカな人という結論になりやすい。日本人が人間関係や社会生活で当たり前と思っているルール、特に「暗黙の了解事項」と言われる当然過ぎるほど当然の決まりごとにはグローバルな視点で見たときに当たり前でないことがあまりにも多いことに多くの日本人は気付いていない。
「郷に入っては郷に従う」ということばがある。これは適応する側の処世の術を述べたもので、日本に来たんだから日本のルールに従えと、海外からの人に要求することを意味することばではない。
最近機会あって何度か病院を訪れる機会があった。そこで一つ発見したことがある。
それは相部屋で入院患者それぞれがカーテンを閉めて生活しているということ。みんな同室の人と関わり合うことが何か罪であるかのような雰囲気で、できるだけ隣の人との接触を避け、声や音も出さないようにしている。
今の日本ではこれが当たり前なのだろうか。これと対照的なのが韓国で、相部屋にいる人たちは話し合い、もらったものを分け合い、苦しみと喜びを分け合ってくらしている。当然のごとく相部屋は日本の部屋のように静かではない。もちろん何か特別な事情がない限りカーテンで隣との間を遮るということもない。
この違いにとても驚きというか、ショックに近いものを感じた。そういえば日本での人間関係は総体的にこういった傾向がある。学内を歩いていて、積極的に挨拶をしてきたり、近寄ってきたりするのはもっぱら留学生で、日本人学生はよほど親しくないと近寄ってきてはくれない。視線を合わせるのを避けたり、気づかぬふりをして通り過ぎる人も多い。人間関係がわずらわしいのか、面倒だと思うのか、どう接していいのかわからないのか、いずれにしても、よくそのようなことを感じる。
これでいいのだろうか。日本人はひきこもりが多いというデータがあるが、一億総ひきこもりになったのでは、グローバル時代の今日、どう生き延びればいいのだろう。
日本での人間関係は「間接」が多い。話題はペットの話とか趣味の話などで、決して相手の心の中を尋ねたり、のぞいたりはしない。できない。何か特別な理由がないと人の家を訪ねられない。お酒がないと本音を語ったり聞いたりできない。メールや匿名でないと心のうちを語れない。サークルに入らないと人間関係が生まれない。公園で他人に話しかけられるのは、犬同士が親しくならないとできない。その話題も犬の話題を越えられない。同じアパートに住む人でもどちらまで、ちょっとそこまで、以上の会話はできない。死にたいと思ったらそんなサイトに入らなければその思いを語れない。お金に困ったら友達に借りることができないで、高い利子を払って金融を利用する。
みんな貝殻のように自分の殻に閉じこもり、よほどのことがないとそれが開かない。このままでいいのだろうか。
最近、日本でよく聞く言葉、KY(空気読めない)。
「空気読めない」を「空気読めない」と言わず、KYと言うこと自体が、ある意味で「空気を読む」コミュニケーション能力が必要だ。
ぼくはかなりKY。でもぼくはKYとは言わず、JKYという。「日本の空気が読めない人」。日本ではマイナーで、ばかにされることも多いが、日本人以外のほとんどはJKYだろう。
自分の言いたいことも言えない。距離を置くから肌で感じることもない。
私たちには「日本語」という言葉があるじゃないか。言いたいことは「空気」で言わず、「言葉」で言えばいいのに。
「空気」が「日本語」にかわる日本のコミュニケーション手段になろうとしている。
まあ振り返ると、以心伝心、あうんの呼吸、いろいろな言葉があるにはあった。これが日本のコミュニケーションスタイルなのか。
それがあたりまえだと思い、そうでない人をKYとバカにする。
空気で言うな。空気を読むな。言葉で言え。言葉を読め。そう言いたい。
私は日本語教師はそれなりにできるけど、日本の空気を教えることはできない。
変な国だ。